2024年5月15日、こまばアゴラ劇場の最終公演の日の様子。

閉館から1年、こまばアゴラ劇場をいま思う

広がっていく“アゴラ(広場)”

11

237

この記事に関するナタリー公式アカウントの投稿が、SNS上でシェア / いいねされた数の合計です。

  • 55 136
  • 46 シェア

2024年5月にこまばアゴラ劇場が閉館した。支配人および芸術監督を青年団の平田オリザが務め、客席数60という小空間を生かしたこまばアゴラ劇場は、実験的かつ先鋭的な作品が多数上演された劇場だ。40年に及ぶ劇場の歴史には、日本の演劇史と重なる部分も多く、改めてその存在の大きさを感じる。

このコラムでは最終公演の様子をレポートするほか、劇場閉館から1年を経て、改めてこまばアゴラ劇場とはどのような劇場だったのかを考える。

取材・/ 熊井玲

変わらずあった、“かつて劇場だった場所”

こまばアゴラ劇場が閉館して1年が経つ。井の頭線の車窓から眺めると、2025年4月現在、建物はまだ以前と変わらず、そこにある。4月下旬、東京大学の学生が行き交う駒場東大前駅に降り立ち、劇場までの道をふらりと歩いてみることにした。

2025年4月、かつてのこまばアゴラ劇場の様子。

2025年4月、かつてのこまばアゴラ劇場の様子。


線路脇の道を歩いて小さな階段を降りると駒場東大前商店街がすぐ見えてくる。ちょうど昼時で、学生たちでにぎわう飲食店やお惣菜店を横目で見つつ、左折して郵便局が見えたら、右手に劇場の看板が見える……はずだったが、すでに看板はなく、かつてこまばアゴラ劇場だった建物はひっそりとそこにあった。工事の工程表が貼られたガラス窓越しにロビーをのぞくと、いつもさまざまな公演のポスターやチラシがぎっしり貼られていた天井や壁には何もなく、そこが劇場であったことを唯一教えてくれるのは、ガラス窓に貼られたロゴシールと、2階の劇場へ続く外付けの階段の壁に掲げられた「最大客席数60」のサインのみ。そのまま少し離れた場所から建物全体を眺めてみると、左右の建物と建物の間にすっぽりと収まったそこが、かつては劇場だったことがもはや現実ではないような、不思議な気持ちになった。
2025年4月、かつてのこまばアゴラ劇場の扉にはまだロゴが残っていた。

2025年4月、かつてのこまばアゴラ劇場の扉にはまだロゴが残っていた。


1年前のこまばアゴラ劇場最後の日、最終公演を取材させてもらった。“こまばアゴラ劇場の一大史を締めくくるドラマティックさ”をほのかに期待していたこちらの思いとは異なり、最終公演は極めて粛々と、通常通り行われた。そのため、レポート自体は割とすぐ書き上がったものの、レポートだけでは何か足りない気がして、その“足りないものは何か”をずっと考えている間に11カ月の時が過ぎ、2025年4月、看板のない“かつてこまばアゴラ劇場だった場所”を見て、1年前にぼんやりとしていた思いが言葉になりそうな気がした。

こまばアゴラ劇場、最後の日

2024年5月15日、こまばアゴラ劇場の最終公演が行われた。
こまばアゴラ劇場は、1984年に井の頭線駒場東大前駅からすぐの場所に開館。2023年12月に劇場公式サイトに掲載された「閉館のお知らせ」で、平田は閉館への思いを以下のように語っている。
「もともと、こまばアゴラ劇場は、私の父平田穂生が銀行から多額の借金をして開業したものでした。その後、私が23歳で支配人に就任し、多くの方々のご支援もあり、どうにかここまで経営を続けてきました。しかしながら、現在も負債は多く残っており、私の人生の残り時間を考えると、健康上など不測の事態が起きた場合に、債務不履行の状態に陥る懸念があります。そこで、債務超過に至っていない今の段階で資産を処分することといたしました。いずれはこのときが来ることを覚悟していましたが、コロナ禍、諸物価の高騰、メンテナンス費用の増大などがあいまって早めの決断を迫られました」

2024年5月15日、こまばアゴラ劇場の最終公演の日の様子。

2024年5月15日、こまばアゴラ劇場の最終公演の日の様子。



そして2024年4月には「こまばアゴラ劇場サヨナラ公演」として、青年団の代表作である「S高原から」「銀河鉄道の夜」「阿房列車」「思い出せない夢のいくつか」を続けて上演。閉館を惜しむ観客の間で、チケットは瞬く間に売れた。

涙のない、最終公演

青年団「思い出せない夢のいくつか」(2024年)より。

青年団「思い出せない夢のいくつか」(2024年)より。

公式サイトによると、こまばアゴラ劇場は「同劇場芸術監督の平田オリザが、著書『芸術立国論』で展開する『劇場を通じて若手劇団を支援する』システムを採用」した劇場で、その言葉通り客席数60の小空間ではこれまで、演劇に止まらず多様な作品が多くの団体によって披露されてきた。元手がなく集客にも苦心する多くの若手劇作家、演出家、パフォーマーにとって、そして若く新たな刺激を求める観客にとって、こまばアゴラ劇場がある時期、重要な役割を持っていたことは間違いない。実際、ここからさまざまな実験的作品が誕生し、国内外の貴重な作品がいくつもここで上演された。
そんなこまばアゴラ劇場で最後に上演された演目は、青年団「思い出せない夢のいくつか」だった。「思い出せない夢のいくつか」は、1994年に青年団プロデュース公演として上演された作品で、地方巡業に向かう往年のスター歌手とマネージャー、付き人の3人が列車の中で他愛無いやり取りを繰り広げる様が描かれる。最終公演では歌手を兵藤公美、マネージャーを大竹直、付き人を南風盛もえが演じた。
青年団「思い出せない夢のいくつか」(2024年)より。

青年団「思い出せない夢のいくつか」(2024年)より。


開演30分前に劇場に着くと、入場の順番を待つ人、当日券を求める人で劇場周辺は静かに混み合っていた。ただ多くは(自分を含め)劇場に1人でやって来ているようで、人が多いにも関わらず皆静かに、劇場スタッフの案内を待っている。そして開演時間が近づくと、当日券に並んでいた人たちもスムーズに場内に案内され、ほぼ定時に開演。列車の舞台美術に俳優が現れたとき、ちょうど劇場横を走る井の頭線の通過音が響き、「ああ、今、アゴラにいるんだな」という実感が湧いた。
劇中では、それぞれの時間を生き、異なる思いを抱える3人が、それでも和やかに膝突き合わせながら、同じ目的地に向かっていく様が静かに描かれる。観客はおそらく本作を何度か観たことがある人が多かったのではないかと思うが、笑ったり前のめりになったりしながら、登場人物たちのやり取りを見つめていた。
2024年5月15日、こまばアゴラ劇場の最終公演終演後の劇場内の様子。

2024年5月15日、こまばアゴラ劇場の最終公演終演後の劇場内の様子。


終演後、カーテンコールに平田オリザが姿を現した。平田は「40年間ありがとうございました。昼公演でいい話をしてしまったので何を話そうかと思っているのですが……(笑)」と場を和ませつつ、「劇場ができた40年前というと、私は韓国に留学をしている年で、劇場の経営が大変なことになって家が傾いていたのですが『(留学に)行きなさい』と言われて行きました。その後、親戚から『あなたの親も留学をしたかったけれども、あなたが生まれていけなかったのだ』と聞き、そのような思いが両親にあったことを知りました」と振り返る。そして平田は「うちの劇団は周年でも特に何か、してきませんでした。なのでここでもあまり過去を振り返らず、これからもどんどん作品を作っていきます。どこかでまた!」と笑顔で宣言。最後に劇場スタッフが「これをもちまして、こまばアゴラ劇場でのすべての演目を終了させていただきます」と締めくくると、客席から大きな拍手が起きた。
2024年5月15日、こまばアゴラ劇場の最終公演の日の平田オリザ。

2024年5月15日、こまばアゴラ劇場の最終公演の日の平田オリザ。

2024年5月15日、こまばアゴラ劇場の最終公演の日の様子。

2024年5月15日、こまばアゴラ劇場の最終公演の日の様子。


劇場のある2階から1階ロビーに降りると、平田や俳優たちもロビーに顔を見せていて、来場者と談笑中だった。ロビーで販売している台本に平田のサインを求める人、平田との2ショットを求める人、ロビーや劇場の外観を撮影している人……観客それぞれが劇場との別れを惜しむ姿はまるで卒業式の後のようで、物悲しさや寂しさは一切なく、明るく和やかな雰囲気が劇場を包み込んだ。改めてロビーを見渡すと、壁一面に貼られた舞台のポスター、存在感のある黄色いボディのロボット、作り付けの本棚に並ぶ舞台関係の書籍など、これまで何気なく見てきたこの“演劇”に満ちた空間に、微かな郷愁を感じた。名残惜しさを感じつつ劇場を出ると、静かな雨が音もなく降っていて、駅までの道のりを急いだ。
2024年5月15日、こまばアゴラ劇場の最終公演終演後は雨が降っていた。

2024年5月15日、こまばアゴラ劇場の最終公演終演後は雨が降っていた。

こまばアゴラ劇場40年の足跡

青年団「烏のいる麦畑」(1987年)より。

青年団「烏のいる麦畑」(1987年)より。

青年団「光の都」(1988年)より。

青年団「光の都」(1988年)より。

40年に及ぶこまばアゴラ劇場の歴史にはいくつかの転換点があった。開館当時の1984年、人気を誇っていたのは野田秀樹率いる夢の遊眠社、鴻上尚史らの第三舞台などスピード感と躍動感あふれる劇団たちで、日常と地続きな世界観とリアルな演技体を特徴とする青年団はそれとは一線を画し、“静かな演劇”の作り手としてこまばアゴラ劇場を拠点に、新たな潮流を作り出した。その後平田は、1994年の「東京ノート」で、鴻上と共に岸田國士戯曲賞を受賞している。
青年団「ソウル市民」初演(1989年)より。

青年団「ソウル市民」初演(1989年)より。


またこまばアゴラ劇場は開館から2002年まではいわゆる貸し小屋として誰でも使用できたが、2003年からは全公演を劇場がプロデュースする形となり、そのことは劇場のブランドを高めただけでなく、劇場と観客の信頼関係を築くことにもなった。さらに同時期、支援会制度も導入され、年会費を払うとその特典として、劇場で上演される作品を優先的に観劇できるというシステムを導入。これによって観客と劇場、劇団やアーティストが、経済的・作品的なつながりを深めることを目指した。
一方、1988年から2000年までは「大世紀末演劇展」という名のもと、平田がディレクターを務める演劇祭が開催されていたが、2001年以降は首都圏以外のカンパニーを紹介する舞台芸術祭「サミット」に生まれ変わり、2006年度から2007年度は岡田利規、2008年度から2010年度は杉原邦生がディレクターを務めた。

ちなみに2009年から2011年まで、平田は鳩山由紀夫内閣および菅直人内閣で内閣官房参与を務めており、同時期に青年団の活動は国内外に広がりを見せていた。このころの青年団およびこまばアゴラ劇場の様子は、4年かけて撮影された想田和弘監督の約5時間半にわたる大長編「演劇1 演劇2」(2012年公開)からも感じ取ることができるが、さまざまな人が出入りするこまばアゴラ劇場は、まさに“アゴラ(ギリシア語で「人の集まる場所」の意)”となっていた。しかし2011年の東日本大震災を経て状況は変化。2013年には資金面での問題から貸館事業を再開したほか、「サミット」の後身である「サマーフェスティバル<汎-PAN>」が終了するなど、変化を余儀なくされていく。
青年団「北限の猿」初演(1992年)より。

青年団「北限の猿」初演(1992年)より。

国際交流企画/【P4】プロデュース 青年団「われらヒーロー」(1999年)より。(撮影:青木司)

国際交流企画/【P4】プロデュース 青年団「われらヒーロー」(1999年)より。(撮影:青木司)



2017年、青年団の公式サイトに掲載された「主宰からの定期便」にて、平田は「劇団青年団は、2019年から2020年をめどに、劇団のいわゆる本社機能を豊岡市に移すこと」「本社機能の移転が決定すれば、平田オリザは豊岡市に移住する」「こまばアゴラ劇場は、青年団の本格移転完了後数年を経て、平田が芸術監督の座を退く。その後は、運営評議会を構成し、その組織が公募によって芸術監督を任命するといった持続可能な制度改革を行う。アトリエ春風舎も同様に、継続して運営を行う。支援会員制度も、当面、継続する」と、青年団とこまばアゴラ劇場、そしてもう1つの劇場であるアトリエ春風舎の“今後”について言及した。その宣言通り、2019年に平田は豊岡に移住し、青年団は2020年に開館した、兵庫・江原河畔劇場のレジデントカンパニーとなった。
青年団国際交流プロジェクト2004「山羊 ーシルビアってだれ?ー」(2004年)より。(撮影:青木司)

青年団国際交流プロジェクト2004「山羊 ーシルビアってだれ?ー」(2004年)より。(撮影:青木司)

青年団「サンタクロース会議」初演(2008年)より。(撮影:青木司)

青年団「サンタクロース会議」初演(2008年)より。(撮影:青木司)

本広企画「演劇入門」(2010年)より。(撮影:青木司)

本広企画「演劇入門」(2010年)より。(撮影:青木司)


劇場を巡る状況が目まぐるしく変化していく一方で、2013年度にこまばアゴラ劇場と青年団によって立ち上げられた若手演劇人の育成機関・無隣館は、劇場に新たな意味をもたらした。当初、無隣館はこまばアゴラ劇場を拠点としていたが、2020年度の第四期以降は江原河畔劇場に場所を移し、戯曲講座、俳優ワークショップ、美術ワークショップ、技術研修、アートマネージメント実習・創作といったさまざまな講座を展開している。無隣館からは、岸田國士戯曲賞を受賞した福名理穂をはじめ、升味加耀、松村翔子、三浦雨林、柳生二千翔、早坂彩、山内晶、蜂巣もも、綾門優季といった多数の演劇人が輩出されている。かつて松井周、多田淳之介、岩井秀人、柴幸男、吉田小夏、工藤千夏、舘そらみ、山田百次らが名を連ねた青年団演出部(2023年6月に解散)が存在したように、創作過程において孤立しがちな作り手が、第一線で活動している講師陣と対話することができたり、アートマネージメントや舞台美術などに関して学び直すことができる場を得られたことは、作り手にとって、舞台界にとって大きな意味をもたらした。
2024年5月15日、こまばアゴラ劇場の最終公演の日の様子。

2024年5月15日、こまばアゴラ劇場の最終公演の日の様子。



そして、このような劇場の創造環境を実現するために、作り手だけでなく多くのスタッフが尽力していたことも忘れてはいけない。これまでこまばアゴラ劇場で活動していたスタッフの中には現在、国内外のさまざまな場所で重要な仕事に就き、地域や社会とつながりを持ちながら日本の舞台業界を支えている人もいる。

広がる“アゴラ”の可能性

……と書いたのが2024年5月。それから1年が過ぎ、こまばアゴラ劇場をメインに公演を行なっていた団体は、新たな地域や劇場で公演を行うようになった。青年団は江原河畔劇場に拠点を移し、「豊岡演劇祭」や各地へ出向いて公演を行うなど新たな場所で存在感を見せている。また演劇界としては、4年に及ぶコロナ禍を境に新たな作り手が台頭し、これまでとは異なる視点、手法で演劇作品を生み出し始めている。その中には無隣館出身の作り手も多く、こまばアゴラ劇場の狭小空間だからこそ成立した繊細さや実験的手法を、時代や場所に合わせて多様に変化させながら新たな表現に挑んでいる。こまばアゴラ劇場という場所は無くなったが、アゴラ(広場)自体はむしろ各地に広がり、こまばアゴラ劇場が劇場という枠組みを超えた存在になったとも言える。
客席数60の極めて小空間でありながら、多様な実験的な取り組みが行われてきた“インキュベーター”こまばアゴラ劇場。ここで生まれたさまざまなアイデアの断片が、実験的な取り組みやチャレンジが、今後の舞台につながっていくことを期待せずにはいられない。

この記事の画像(全27件)

読者の反応

ケラリーノ・サンドロヴィッチ @kerasand

アゴラ劇場ではとうとう一本も芝居を打たなかった。
ある時期(それは小劇場すごろく的な道筋を目指す者たちが激減した時期と重なる)、個人的に興味をもてる若い人の芝居は、アゴラとKAATと三鷹に集中した。
幾度か劇場からもお声掛け頂いたのだ。一度ぐらいあの空間で創作してみたかった。 https://t.co/IAZimBO2ul

コメントを読む(11件)

あなたにおすすめの記事

このページは株式会社ナターシャのステージナタリー編集部が作成・配信しています。

ステージナタリーでは演劇・ダンス・ミュージカルなどの舞台芸術のニュースを毎日配信!上演情報や公演レポート、記者会見など舞台に関する幅広い情報をお届けします